祈りの部屋

集まることが難しくても、共に祈ることを忘れないでいたいと思います。

み言葉に導かれつつ、互いのため、諸教会のため、この世の様々な人々のために共に祈りましょう。

現在祈祷会は、下記の通り、オンラインと対面を併用して行っています。

 

第1,3,5水曜 オンライン 午後8時25分から

第2,4水曜   教会で   午後2時から



 

エレミヤ書23912

 

 今日は23912を読みましたが、ここは、この章の終わりまで続く預言者に対する言葉の始まりの部分です。最初に「預言者たちについて」と記されていますが、これが全体の表題になっています。そしてその序言のような形で9節がおかれています。

 

 エレミヤは、心臓が破れ、骨が力を失ったと言います。もちろんそれはたとえですけれど、しかしもしそんなことがあれば立ち上がることも、起き上がることもできずに地面に倒れたままになってしまうでしょう。その状態を、酒に飲まれてしまって自力で立っていることさえできなくなっている人の様子にたとえます。足もとに力が入らず、姿勢を維持することすらできない状態です。それらがどんなことを表現しているかは明らかです。エレミヤはあることを知って大きな衝撃を受け、あまりのショックに立ち上がる気力さえ失ってしまったのです。何がそんなにショックだったのかというと、それは預言者たちの有様でした。それがあまりにひどいものだったために、エレミヤは地面に倒れてしまいそうになるほどの衝撃を受けたのでした。

 

 何がそんなにひどかったのかということは1012節で語られています。10節の始めには「姦淫するものがこの国に満ちている」とあります。姦淫という言葉は、しばしば偶像礼拝のことを指して用いられています。預言者について言われている中で出て来ていますから、ここもそのような意味で使われているように思われますが、注解者は文字通りの姦淫の罪についていっているのだろうと説明しています。預言者は神から託された言葉を人々にとりつぐことを務めとします。しかし、語ることさえ正しければどんな生活をしていてもかまわないというわけではありません。語ることと行いとが一致していなければ、その人の言葉を信じることはできないからです。申命記1815以下に、将来モーセのような預言者をたてられるという約束が語られています。その中で、預言者の語る言葉が主の語られた言葉かどうかを判断する基準として、主の名によって語られたにもかかわらずその言葉どおりのことが起こらないならそれは主が語られたものではない、と言われています。これは預言の内容について言われていることですが、語ることと実際が一致しないということを考えると、預言者自身のあり方についても示される点があるように感じます。もちろん、預言者とはいえ人間であることに変わりはありませんから、いくら神の言葉を語るからといって、神がお求めになることを一言一句その通りに実行できるわけではありません。エレミヤ自身、神が示されたことをその通り語っているにもかかわらず、かえって苦境に立たされねばならなかった状況で,神はわたしにとって偽りとなられたとまで言いながら激しく訴えかけています。そんな葛藤や苦しみを味わわねばならないのは、彼が人間だからです。だから神のおっしゃるとおりにしているのに苦しみを味わわねばならないとき、神のなさることが分からず、神がわたしを欺いたと訴えます。それはまるで神を冒瀆するかのような激しい言葉でした。預言者だからといって、神を100%信頼しきることができるわけではないし、すべてを分かっているわけでもありません。でも彼は苦しみながらも神の側に立って忠実に働きました。そんな彼の姿をわたしたちは真実な預言者という言い方で表します。そんな彼の味わった苦悩は決して神への背きの表れではなく、むしろ神の前に立とうとし続けたことの表れと言えるでしょう。その意味で彼はまさに預言者として歩んだ人です。でも、ここで取り上げられている預言者たちは神の前に立とうとはしなかったし、神を恐れもせず、自分の欲望のままに振る舞い続けている人たちでした。預言者と呼ばれているのですから、彼らも神からの託宣と称して様々なことを語っていたのでしょう。けれど、彼らが何を語ったとしても、それが人々を神へ導くことはありませんでした。彼ら自身が神への恐れを捨てて生きていたのと全く同じように、彼らの言葉を聞く人々も彼らと同じように振る舞っていたはずです。そうしてもかまわないのだというメッセージを、彼らは彼ら自身の行いを通して伝え続けたのです。その結果、国土は呪われて喪に服し、荒れ野の牧場も干上がるという惨状が人々を襲うことになったのでした。それは、神がお下しになった裁きの結果です。神は彼らの働きを通して祝福をもたらしてくださることはありませんでした。

 

 そんな預言者の悪は神殿の中にさえおよんでいたと11節で言われています。ここでは「預言者も祭司も汚れ」と言われています。この箇所の非難の的になっているのは預言者ですから、祭司が出てくるのは少し唐突に感じますが、預言者は神殿でも働きましたし、祭司も預言者と同じような働きもしました。神のご意志を伝えるという働きを担うどちらの人たちの間にも悪がはびこっていて,誰も神のご意志を正しく受け取ることが出来なくなっているということが起こっていたのかもしれません。「神殿の中でさえ」と言われていますが、ここでは偶像礼拝に関連した宗教的な儀式のことも含んで言われているとも考えられます。聖書ではたびたびバアルのことが言及されますが、バアルが豊穣や多産の神として拝まれていたたことと結びついていたため、その儀式の中には性的な行為も含まれていました。律法やホセアのような預言者たちはそれに反対していますが、実際にはなかなかなくならなかったようです。本当であれば、預言者たちはそれを指摘し、人々を神へ連れ戻すために働かなければなりません。しかし、預言者も、また祭司も、その責任を果たすどころか、むしろそれに加担していたのではないかと思われます。

 

 それゆえ神は彼らに裁きを下すとおっしゃいます。彼らの道は滑る岩のようになって、彼らをつまずかせることになると言われています。彼らが今しているような行いがこれから先もずっと変わらず続いていくようなことはないと宣言なさるのです。

 

 倫理的な乱れということは、なかなか表に出づらいことかもしれません。エレミヤが激しいショックを受けたと言っていますが、おそらく事実を知るまでは全く違うイメージで預言者たちを見ていたのでしょう。エレミヤ自身若いときに召されているわけですが、その当時の彼から見て、預言者というのはとても重い務めを果たす人と思えていたのだろうと思います。だからこそ彼は召されたとき、自分はまだ若くて語るべきことを知りませんと言って断ったのでしょう。それだけに、その預言者たちが悪の道を走り、不正を行うために力を使っている様子を知ることは大きな衝撃だったはずです。それくらい、預言者たちがよこしまなことを行い続けていたことは分かりにくいことでもあったのではないかと思います。というより、彼らのしていることを間違いだと考えることのできる人がいなかったということなのかもしれません。誰かに指摘されなければ、普通のこととして間違いが見過ごされてしまうということはよくあります。預言者たちが自分の務めを果たしていなかったわけですから、人々も彼らのしていることに気付いてはいてもそれを間違いだと思わなかったということはありうるでしょう。でもエレミヤは違いました。違っていることができたのは、彼が神の前に立ち続けていたからです。9節の終わりに、彼が衝撃のあまり立っていることさえできなくなったのは主のゆえであり、その聖なる言葉のゆえであると言われています。主なる神の言葉に照らされているからこそ、預言者の間違いを当たり前のこととして見過ごしてしまわず、ちゃんと間違いとして認識することができたのではないでしょうか。恐れをもって神の前に立ち、み言葉に聞き続けていることが、何が間違いで何が正しいことなのかをわたしたちに示してくれるでしょう。そうでないとわたしたちの感覚は麻痺してしまい、道をそれてしまっても気づけなくなってしまいます。また、気づいても引き返せなくなってしまいます。そうならないよう、主なる神の聖なる言葉に恐れと信頼をもって耳を傾けていきたいと思います。

 

 

 

《今週の祈祷主題》 「神学校のために」

 

今年神学校の入学者はなく、在校生2名(2年生と4年生一人ずつ)で新年度が始まりました。それぞれがふさわしい訓練を受け、主の器として整えられていくようお祈りください。また、牧師のない群れの多さを思うとき、「収穫は多いが働き手が少ない」と言われた主の言葉が思い起こされます。「だから収穫の主に願いなさい」との主の言葉の通り、働き人を起こしてくださるよう祈りましょう。